津山のステンチ・ハードコア DEATH DUST EXTRACTOR 解散直前インタビュー。

聞き手、撮影:沢村ムラ

今年、惜しくも解散してしまった津山が誇るステンチ・コア・バンド Death Dust Extractor の解散直前インタビュー!
Vo,Ba) シンスケ Ba,G) キミ G) ハッチャン Dr) マー兄

――まずは結成の経緯をお願いします。

シンスケ
2002年頃かな。1stのテープが2003年だからそのくらい。

――メンバーの経緯は?

シンスケ
地元津山のハードコア好きな友達と結成しました。他の津山のバンド達と一緒(笑)。
でもホント僕はあまり津山の友達があまりいないから(笑)。
だけど、だんだん津山のハードコア好きな友達ができてきて……結成しました。

――そういえばハッチャンは鳥取だけど?

キミ
ハッチャンはもともとシンスケと友達で、 death dust に入った。

ハッチャン
そう、僕は友達少なくて普段は石になってます(笑)。

――ハッチャンのライヴのときの冠物もいいですね(笑)。

ハッチャン
あれは出落ち(笑)。通販で2万円くらいで買いました。

――ところで今までの音源の経緯を聞かせてもらえますか?

シンスケ
デモテープを2本だして、その後にデモテープの編集版が 12in になって。

マー兄
それが津山の音源では一番レアじゃないかな?? 会う外国人はみんな言ってくる。 12in ないのかって。

Chainsaw Mayhem (2013)
GET BACK OUR FUTURE (2013)
未来ハ僕ラノ手ノ中 (2010)

――僕も知りませんでした。そんなにレアなんですか?

シンスケ
たしか200枚くらいしか作ってなかったんだけど、外国からの問い合わせが多い。
そんでメンバーチェンジがあって CD-R を出して。それが CRUST WAR から 7in になりました。
CRUST WAR レーベルから YOTSUVA V.A に参加もし、その後にハードコアインフェルノの V.A 。

マー兄
コレは Skizophrenia! も参加していて超名盤です!! 書いといて(笑)。

キミ
んで、ハードコアインフェルノで1回活動がとまって僕とマー兄がはいって、今のメンバーが固まる。

マー兄
そしてアクションとハードコアインフェルノと、まだあったな…… Step into the right V.A と「未来は僕の手の中1/4」の 7in 、 HEAL COMP V.A GET BACK OUR FUTURE V.A 。

シンスケ
んで、一番最近の 7in(Chainsaw Mayhem) 。

キミ
あとクソダサイ XXXX との split もやったな。

マー兄
あ~、あったね(笑)。

――今後の予定は?

一同
…………

――……今日はありがとうございました。

「ラス・メイヤーの映画を観ながらジョイントを吸って、もう一度、眠りに落ちる……」スウェーデンのサイケデリック・ドゥーム・トリオ Salem’s Pot インタビュー

2014年 10月 インタビュー・文:梵天レコード

スウェーデンのサイケデリック・ドゥーム・トリオSalem’s Pot。今年4月、アルバム “Lurar ut dig pa prarien” をリリースし、そのレトロでドラッギーなサウンドはここ日本でも (一部で) 話題を呼んだ。それから僅か5ヶ月後の9月に2曲入り7インチ “Ego Trip/Yer Doom” をリリースしたのだが、これは以前のアルバムとはまったく異なる作風であった。これが彼らの新機軸となるのか? それともおふざけに過ぎないのか? ミステリアスなイメージを打ち出しているだけに好奇心を駆り立てられる作品だ。そんなバンドの実像に少しでも迫ろうとインタビューを申し込んだところ、メンバーの誰かはわからないが快諾してくれた。

――まず初めに、Salem’s Potの歴史を教えてください。

Salem’s Pot
バンドの歴史は閉鎖的な町で、二人の友人同士と絶望から始まった。

何か一緒にやろうという話になって、俺たちは古くて安っぽいホラー映画とBlack Sabbathの大ファンだったから、自然とコンセプトが決まった。

二人の友人に頼んでベースとドラムをプレイしてもらって、 “Sweeden” デモをレコーディングした。

その時からもドラムが変わり続けていて、今も正式なドラマーはいない。

アルバムでドラムを叩いているThe Eagleは元々ギタリストで、今はバンドのセカンド・ギタリストになっている。

――4月にアルバム “Lurar ut dig pa prarien” をリリースしましたが、レコーディングは大変でしたか? それとも容易でしたか?

Salem’s Pot
その両方だね。あまりリハーサルをしていなかったし、時々ある種の緊張感があったけど、どれも自然な状態と言えるものだった。全体的に見れば順調だったよ。

“Lurar ut dig pa prarien” (2014)

――レコーディングをした場所、機材について教えてください。

Salem’s Pot
機材は基本的に、その時持っていたものを使用した。ドラムとパーカッションにはリボンマイク。ガールフレンドが持っていたシュルティ・ボックスと祖母の古いアコーディオン。

場所は俺たちがリハーサルに使っている場所と同じ、古い精神病院で。
あの場にいたのは俺たちだけではなかったと思うね……。

――アートワークやPVにはB級ホラー、グラインドハウス映画を思わせるものが多いですね。映画や文学などがあなたの音楽性に影響を与えているのでしょうか? 不気味なマスクを付けたプロモ写真は 『ラスト・ハウス・オン・デッド・エンド・ストリート』 を思い出しました。

Salem’s Pot
バンドを始めた頃、楽器 (ギター) を弾いていたのは一人だけで、残りのメンバーはヴィジュアル面のことばかり考えていたよ。

映画は俺たちのコンセプトの半分を占めている。好きな作品は多いけど、特にジャーロ、マカロニ・ウェスタン。文学だとハンター・S・トンプソンチャールズ・ブコウスキー 『ラスト~』 は素晴らしいね。プロモ写真は Alice, Sweet Alice” からだよ。

 

“Alice, Sweet Alice” (1976)

――アルバムはRidingEasy Records (旧名: Easy Rider Records ) からのリリースですが、これはどのような経緯で実現したのですか?

Salem’s Pot
Ljudkassett
からリリースした “Watch Me Kill You” のカセットをDaniel Hall (RidingEasy Records オーナー) が手に入れて、俺たちにヴィニール盤をリリースしたいと言ってきた。そこからEasy Rider Recordsが生まれて、後はご存知の通りだよ!

――9月には “Ego Trip/Yer Doom” をリリースしましたが、アルバムから短い期間でのリリースで、尚且つスタイルの異なる楽曲が収録されていますが、このスタイルは次のアルバムにも反映されるのでしょうか?

Salem’s Pot
イエスでもあり、ノーでもある。俺たちは7インチを出したかっただけで、そのためには曲を短くしなければならなかった。
メンバー間の理解もより良く深まっているし、同じリフを20分演奏する以上のことができるんだ。

リフはまだまだあって、今はもっと良い形に纏めようとしているところだよ。

“Ego Trip/Yer Doom” (2014)

――ミュージシャンとしてどんなバンド、アーティストに影響を受けていますか?

Salem’s Pot
音楽的にはMerle HaggardからNgozi FamilyHowlin’ WolfからDead Moonウディ・ガスリーからHawkwindまですべてだね。
それにジャーロ、エクスプロイテーション、マカロニ・ウェスタン、奇妙なホラー、奇妙な映画すべて。
もちろんGoblinエンリオ・モリコーネからも大きな影響を受けている。

――古い作品についていくつかお聞かせください。 “Sweeden” は精神病院だった廃墟でレコーディングされたというのは本当ですか?

Salem’s Pot
ああ。俺たちがリハーサルに使っている建物は1969年まで精神病院だった。

“Sweeden” (2012)

―― “Watch Me Kill You” にはWicked Ladyのカバー “Run The Night” が収録されていますが、あなたはオブスキュアな70年代音楽を掘り下げているのですか? もしそうなら、70年代音楽の何が特別なのでしょうか?

Salem’s Pot
その通りだよ。70年代の音楽には歌詞と生々しいプロダクションの両方に、多くのフラストレーションと誠実さがある。
たとえば歌詞だと、 “Enough with the flowers, my friends are dying from overdoses and There’s a war going on” とかね。

“Watch Me Kill You” (2013)

――あなたたちがstonedするのが好きなのは間違いないと思うのですが、好きなブランド、吸い方などはありますか?

Salem’s Pot
真夜中に目覚めて、もう一度眠りに落ちる前に、ラス・メイヤーの映画を観ながら灰皿の吸い掛けのジョイントを吸うのが好きだ。

――知っている日本のバンド、映画はありますか?

Salem’s Pot
ファーラウト
ブルース・クリエイション外道、そしてもちろんフラワー・トラベリン・バンドを知っているよ。

メンバーの何人かは 『銀牙 -流れ星 銀- 』『SF西遊記スタージンガー』『スペースコブラ』 といった作品を観て育っていて、今でも観ているよ。

園子温は素晴らしい監督だし、古い作品だと 『鉄男』 『太陽を盗んだ男』 『地獄』 『ハウス』 とか挙げ始めたら切りがないね。日本映画は大好きだよ!

――Roadburn 2015への出演が決定していますが、Salem’s Potのライブ体験をどのように説明されますか?

Salem’s Pot
おそらく俺たちが好きな古い映画みたいなものだ。曖昧で、震えがくるような、失われたパートと誰にも理解できないような結末が待っているだろう。

――最後に、日本のファンへメッセージをお願いします。

Salem’s Pot
ファンがいるのか? 日本に? ドモ、アリガト!! 君たちに会える日が来るのを楽しみにしているよ。俺たちに日本へ来て欲しかったら連絡してくれ。サーカスがやってくるだろう。ありがとう!!

https://www.facebook.com/Salems.Pot
http://www.salemspot.bandcamp.com/
http://www.salemspot.bigcartel.com/

 

※この記事を英語で読む。Read this article in English.

「ウェールズの何処か――山の頂で、片目のノスリが空に向かって啼いている……」伝説のUK Stoner/DoomバンドAcrimonyの灰から生まれたSigiriyaインタビュー

[:ja]

2014年 9月 インタビュー・文:梵天レコード


90 年代の英国 Doom/Stoner シーンを代表するバンドのひとつだった Acrimony 。
Cathedral や Electric Wizard と並び高い評価を得ていたが、 2 枚のアルバムを残し、惜しまれつつ 2001 年に解散。その後はギタリストの Stuart O’Hara が Iron Monkey でギターを弾くなど、各人活動していたが、 2009 年に現 Lifer の Lee Davies を除く 4/5 のメンバーによって結成されたのが Sigiriya だ。
2011 年に 1st アルバム “ Return to Earth ” をリリースし、 Acrimony 直系の Heavy Stoner Rock で往年のファンを歓喜させた。
しかし、 2012 年にヴォーカルの Dorian Walters が脱退。新たに Mat “PIPES” Williams を迎えて今年四月、 “ Darkness Died Today ” をリリースした。
Dorian の(良い意味で)ルーズな歌声とは対極にあるようなソウルフルで漢気溢れる歌声はバンドに新たな風を吹き込んでいる。
Acrimony の解散から Sigiriya の結成、そして現在までをギタリストの Stuart O’Hara とベーシストの Paul Bidmead に聞いた。

 

――応じて頂きありがとうございます。Sigiriyaの前にAcrimonyについてお聞かせください。
2001年にAcrimonyは解散しましたが、一体何があったのでしょうか?

Stuart O’Hara(Guitar, 以下Stu)
俺たちに興味を示してくれてありがとう。何度も言っていることだけど、Acrimonyは当時の俺たちがやりたかったことをやりつくしたんだ。
俺たちは若くて頑固なロクデナシだったし、音楽業界でやっていけるタイプじゃなかった。
それに、俺たちはもっと色々な人生経験をしてみたかったんじゃないかな。

Paul Bidmead(Bass, 以下Mead)
ああ、解散する運命だったんだ。生まれて、生きて、そして死んだ!
俺たちはキャリアを気にするタイプじゃないからね。オリジナル・メンバーが一人ずつ去りながら何枚もアルバムを連発するなんて最悪なことだと思うね。

――“Tumuli Shroomaroom(邦題:『無限への旅』、旧邦題:『瞑瞑』)”“Bong On – Live Long(邦題:『幻覚の象神』)”は2007年にLeaf Hound Recordsから再発、発売されましたが、これはどのような経緯だったのですか?

Stu
俺が覚えている限りだと、トレノ(小林飛玲乃。Leaf Hound Records主宰)がDorian(Acrimonyのヴォーカル)に“Tumuli~”のヴィニール盤リリースの話を持ちかけてきたんだ。俺たちみんなとても興奮したよ。アルバムを出してから10年が経っていたからね。素晴らしい提案だったし、自然と快諾したよ。それからアルバムとレア音源をCDで再発したいと言われて、“Bong On~”としてリリースした。
再発はアートワーク、写真、歌詞、その他すべてを刷新して、ジャケットはすべて、いまや伝説のJimbob IsaacDrunken Marksman illustration, Taint/Harkのフロントマン)が担当してくれた。

彼とDorianはメールでかなりのやりとりをしていたようだが、俺たちにはあまり教えてくれなかったな。彼は俺たちの大ファンで、Dorianに色々な荷物などを送っていた。彼とはRoadburnで一度だけ会ったけど、とてもいいヤツそうだったよ。その後のことはわからないな。レコードはUKのPlastic HeadやドイツのChurch Withinで流通していた。
彼が病気になったと何年か前に聞いたのが最後だけど、回復していることを願っているよ。

Mead
“Tumuli~”がヴィニールになったのはクールだったね。

 

Tumuli Shroomaroom
Bong On – Live Long!

――Acrimony解散から約10年後にSigiriyaが結成されるわけですが、他のメンバーとは連絡を取り合っていたのですか?

Stu
Darren(Ivy, drums)とMeadとは解散してから何年も会っていなかった。俺はIron Monkeyに短い期間いたあと、The Dukes of Nothingと、俺とDorian、Lee Roy(Lee Davies)や他のヤツとBlackeyeriotを数年やっていた。

Mead
俺はシャーマンの道を辿りながらダブやサイケトランスをひっそりとやっていた。
地元でBlackeyeriotを見たけど、一曲目の半ばで俺の体はひっくり返っていたよ!

――Sigiriyaの当初のラインナップはAcrimonyの4/5のメンバーでしたが、何故再結成ではなく、新しいバンドを始めたのですか?

Mead
Acrimonyは俺たちの人生における特定の期間、一つの時代だった。それは絶対に変えたくなかったし、再現することもできなかった。新しい事を始める方にもっと興味があったんだ。

――Sigiriyaというバンド名の意味、由来は何ですか?

Stu
Sigiriyaをざっくり訳すと、“獅子の咽喉”という意味になる。
俺は自分の結婚式でスリランカへ行った時に、このモノリスティックな岩を訪れたんだ。岩が持つ威厳とそれを巡る物語に驚嘆したよ。
家に戻って、俺たちはまだいいバンド名を思いつけていなかったから、俺からみんなに提案したんだ。クールな意味もあるし、ピッタリだと思ってね。

※編注:シギリヤは、スリランカの中部州のマータレーにある遺跡のこと。

――昨年Dorian Waltersが脱退しましたが、何があったのでしょうか?

Stu
彼が脱退したのは2012年だよ。家庭の事情でね。

――新しいシンガーを紹介していただけますか?

Mead
ああ、Matが俺たちの新しいシンガーだ。本物の紳士、シャーマンで、キチガイだ。
音楽的にも人格的にも完璧に馴染んでいるよ。

Stu
Mat “PIPES” Williams伝説だな。ああ、彼が馴染んでくれて感謝しているよ。

 

――“Darkness Died Today”のリリースおめでとうございます。反応には満足されていますか?

Stu
ありがとう。最初は印象が薄いかもしれないが、聴けば聴くほど楽しめる作品だと個人的には思っている。StonerとかDoomよりも良いヘヴィ・ロック・レコードだよ。

 

Darkness Died Today(2014)

――前作“Return To Earth”(2011)を聴いたとき、私にはAcrimonyの続編のように感じられましたが、”Darkness Died Today”はもっとヘヴィでメタリックですね。

Stu
間違いなく、よりヘヴィで、一貫した纏まりのある作品だ。

Mead
サイケデリックというよりは地に足がついているね。まだ影響は残っているけど、解釈は異なっているよ。

 

Return to Earth(2011)

――ミュージシャンとしてどんなバンド/アーティストに影響を受けていますか?

Stu
Black Sabbath, Deep Purple, ZZ Top, Hawkwind, Status Quoなどの伝統的なバンドとEntombed, Tragedy, Agolloch, 初期Metallica, Discharge, Cro-Mags, The Obsessed, Victor Grifinなど初期衝動溢れるバンドのマッシュアップだね。

Mead
俺のプレイにはダブの影響があると思う。それと俺はペイガン・ブラック・メタル――Wolves in the Throne Room, Dordeduh, Negura Bunget――などをよく聴くよ。

――最近のDoom/Stonerシーンについてどう思っていますか?

Stu
90年代と比べると、今はモンスターだよ。とてもたくさんのバンドが活動しているのは良いことだ。君が知っているバンドの半分も俺にはわからないけど、少なくとも、それで多くの人は喜んでいるみたいだね。

Mead
他のシーンと同じように、良いのもいれば悪いのもいるし、本物も偽物もいる。Stoner Rockについてはよく知らないけど、Goatessはシーンのどのバンドより良いよ。

Stu
ああ、Goatessは最高だ。

――Sigiriyaの次の予定について教えてください。

Mead
新しいアルバムを作って、いくつかショウをやるよ。

――では最後に、日本のファンへメッセージをお願いします。

Mead
ウェールズの何処か――
山の頂で、片目のノスリ――タカ目タカ科の鳥――が空に向かって啼いている。
その啼き声がSigiriyaの創り出す音だ。そして、Sigiriyaは君達を愛している!!!

Stu
Meadよりうまいことは言えないな。君達が熱心に連絡してくれれば、いつの日か日本へ行って君達の為にプレイするチャンスが望めるかもしれない。
インタビューしてくれてありがとう。バンドのことを知って、広めてくれる人たちに感謝している。それは俺たちにとって世界を意味しているからね。

 

※この記事を英語で読む。Read this article in English.[:en]

2014年 9月 インタビュー・文:梵天レコード


90 年代の英国 Doom/Stoner シーンを代表するバンドのひとつだった Acrimony 。
Cathedral や Electric Wizard と並び高い評価を得ていたが、 2 枚のアルバムを残し、惜しまれつつ 2001 年に解散。その後はギタリストの Stuart O’Hara が Iron Monkey でギターを弾くなど、各人活動していたが、 2009 年に現 Lifer の Lee Davies を除く 4/5 のメンバーによって結成されたのが Sigiriya だ。
2011 年に 1st アルバム “ Return to Earth ” をリリースし、 Acrimony 直系の Heavy Stoner Rock で往年のファンを歓喜させた。
しかし、 2012 年にヴォーカルの Dorian Walters が脱退。新たに Mat “PIPES” Williams を迎えて今年四月、 “ Darkness Died Today ” をリリースした。
Dorian の(良い意味で)ルーズな歌声とは対極にあるようなソウルフルで漢気溢れる歌声はバンドに新たな風を吹き込んでいる。
Acrimony の解散から Sigiriya の結成、そして現在までをギタリストの Stuart O’Hara とベーシストの Paul Bidmead に聞いた。

 

――応じて頂きありがとうございます。Sigiriyaの前にAcrimonyについてお聞かせください。
2001年にAcrimonyは解散しましたが、一体何があったのでしょうか?

Stuart O’Hara(Guitar, 以下Stu)
俺たちに興味を示してくれてありがとう。何度も言っていることだけど、Acrimonyは当時の俺たちがやりたかったことをやりつくしたんだ。
俺たちは若くて頑固なロクデナシだったし、音楽業界でやっていけるタイプじゃなかった。
それに、俺たちはもっと色々な人生経験をしてみたかったんじゃないかな。

Paul Bidmead(Bass, 以下Mead)
ああ、解散する運命だったんだ。生まれて、生きて、そして死んだ!
俺たちはキャリアを気にするタイプじゃないからね。オリジナル・メンバーが一人ずつ去りながら何枚もアルバムを連発するなんて最悪なことだと思うね。

――“Tumuli Shroomaroom(邦題:『無限への旅』、旧邦題:『瞑瞑』)”“Bong On – Live Long(邦題:『幻覚の象神』)”は2007年にLeaf Hound Recordsから再発、発売されましたが、これはどのような経緯だったのですか?

Stu
俺が覚えている限りだと、トレノ(小林飛玲乃。Leaf Hound Records主宰)がDorian(Acrimonyのヴォーカル)に“Tumuli~”のヴィニール盤リリースの話を持ちかけてきたんだ。俺たちみんなとても興奮したよ。アルバムを出してから10年が経っていたからね。素晴らしい提案だったし、自然と快諾したよ。それからアルバムとレア音源をCDで再発したいと言われて、“Bong On~”としてリリースした。
再発はアートワーク、写真、歌詞、その他すべてを刷新して、ジャケットはすべて、いまや伝説のJimbob IsaacDrunken Marksman illustration, Taint/Harkのフロントマン)が担当してくれた。

彼とDorianはメールでかなりのやりとりをしていたようだが、俺たちにはあまり教えてくれなかったな。彼は俺たちの大ファンで、Dorianに色々な荷物などを送っていた。彼とはRoadburnで一度だけ会ったけど、とてもいいヤツそうだったよ。その後のことはわからないな。レコードはUKのPlastic HeadやドイツのChurch Withinで流通していた。
彼が病気になったと何年か前に聞いたのが最後だけど、回復していることを願っているよ。

Mead
“Tumuli~”がヴィニールになったのはクールだったね。

 

Tumuli Shroomaroom
Bong On – Live Long!

――Acrimony解散から約10年後にSigiriyaが結成されるわけですが、他のメンバーとは連絡を取り合っていたのですか?

Stu
Darren(Ivy, drums)とMeadとは解散してから何年も会っていなかった。俺はIron Monkeyに短い期間いたあと、The Dukes of Nothingと、俺とDorian、Lee Roy(Lee Davies)や他のヤツとBlackeyeriotを数年やっていた。

Mead
俺はシャーマンの道を辿りながらダブやサイケトランスをひっそりとやっていた。
地元でBlackeyeriotを見たけど、一曲目の半ばで俺の体はひっくり返っていたよ!

――Sigiriyaの当初のラインナップはAcrimonyの4/5のメンバーでしたが、何故再結成ではなく、新しいバンドを始めたのですか?

Mead
Acrimonyは俺たちの人生における特定の期間、一つの時代だった。それは絶対に変えたくなかったし、再現することもできなかった。新しい事を始める方にもっと興味があったんだ。

――Sigiriyaというバンド名の意味、由来は何ですか?

Stu
Sigiriyaをざっくり訳すと、“獅子の咽喉”という意味になる。
俺は自分の結婚式でスリランカへ行った時に、このモノリスティックな岩を訪れたんだ。岩が持つ威厳とそれを巡る物語に驚嘆したよ。
家に戻って、俺たちはまだいいバンド名を思いつけていなかったから、俺からみんなに提案したんだ。クールな意味もあるし、ピッタリだと思ってね。

※編注:シギリヤは、スリランカの中部州のマータレーにある遺跡のこと。

――昨年Dorian Waltersが脱退しましたが、何があったのでしょうか?

Stu
彼が脱退したのは2012年だよ。家庭の事情でね。

――新しいシンガーを紹介していただけますか?

Mead
ああ、Matが俺たちの新しいシンガーだ。本物の紳士、シャーマンで、キチガイだ。
音楽的にも人格的にも完璧に馴染んでいるよ。

Stu
Mat “PIPES” Williams伝説だな。ああ、彼が馴染んでくれて感謝しているよ。

 

――“Darkness Died Today”のリリースおめでとうございます。反応には満足されていますか?

Stu
ありがとう。最初は印象が薄いかもしれないが、聴けば聴くほど楽しめる作品だと個人的には思っている。StonerとかDoomよりも良いヘヴィ・ロック・レコードだよ。

 

Darkness Died Today(2014)

――前作“Return To Earth”(2011)を聴いたとき、私にはAcrimonyの続編のように感じられましたが、”Darkness Died Today”はもっとヘヴィでメタリックですね。

Stu
間違いなく、よりヘヴィで、一貫した纏まりのある作品だ。

Mead
サイケデリックというよりは地に足がついているね。まだ影響は残っているけど、解釈は異なっているよ。

 

Return to Earth(2011)

――ミュージシャンとしてどんなバンド/アーティストに影響を受けていますか?

Stu
Black Sabbath, Deep Purple, ZZ Top, Hawkwind, Status Quoなどの伝統的なバンドとEntombed, Tragedy, Agolloch, 初期Metallica, Discharge, Cro-Mags, The Obsessed, Victor Grifinなど初期衝動溢れるバンドのマッシュアップだね。

Mead
俺のプレイにはダブの影響があると思う。それと俺はペイガン・ブラック・メタル――Wolves in the Throne Room, Dordeduh, Negura Bunget――などをよく聴くよ。

――最近のDoom/Stonerシーンについてどう思っていますか?

Stu
90年代と比べると、今はモンスターだよ。とてもたくさんのバンドが活動しているのは良いことだ。君が知っているバンドの半分も俺にはわからないけど、少なくとも、それで多くの人は喜んでいるみたいだね。

Mead
他のシーンと同じように、良いのもいれば悪いのもいるし、本物も偽物もいる。Stoner Rockについてはよく知らないけど、Goatessはシーンのどのバンドより良いよ。

Stu
ああ、Goatessは最高だ。

――Sigiriyaの次の予定について教えてください。

Mead
新しいアルバムを作って、いくつかショウをやるよ。

――では最後に、日本のファンへメッセージをお願いします。

Mead
ウェールズの何処か――
山の頂で、片目のノスリ――タカ目タカ科の鳥――が空に向かって啼いている。
その啼き声がSigiriyaの創り出す音だ。そして、Sigiriyaは君達を愛している!!!

Stu
Meadよりうまいことは言えないな。君達が熱心に連絡してくれれば、いつの日か日本へ行って君達の為にプレイするチャンスが望めるかもしれない。
インタビューしてくれてありがとう。バンドのことを知って、広めてくれる人たちに感謝している。それは俺たちにとって世界を意味しているからね。

 

※この記事を英語で読む。Read this article in English.[:]

「ただね、せっかくやれるチャンスだから、無駄にはしたくないと思ったんじゃないかな」東京・高円寺のゴッドマザー、松下弘子インタビュー

2013年6月21日 聞き手: 川保天骨(梵天レコード) ギョクモンエンターテイメント事務所にて

※本記事はペキンパー第四号に収録されていたものの再録です。

 

――松下さん、私、実は以前、バンドの写真、松下さんに撮ってもらった事があるんですよ。

松下
ええ、覚えてますよ。『太陽肛門』難しいバンドだったですよ~どうやって撮ろうか、苦労しましたもん。

――あ~すみません。でも松下さんの撮ってくれた写真、色々使わせてもらいました~。海外のレーベルとか雑誌に送ったのは松下さんの写真です。

松下
そうですか、ありがとうございます。

――それにしても、今日は雨の中、事務所まで来ていただいてありがとうござます!

松下
いいえ、こちらこそ!私もお会いしたかったですよ~。

――ありがとうございます。今日はよろしくお願いします!

松下
はい。何でも聞いてくださいね。

――それではまず、松下さんのカメラとの出会いをお聞きしたいんですが。どういうきっかけで写真の世界に入ったんですか?

松下
はい。私が16歳の時に近所のお兄さんに声を掛けられてモデルをしたことから始まるんですね。その人はその後『二科展』なんかに入る有名な人になったんですけど………。中尾巌っていう方ですが、その時は私と10歳ぐらい違う単なる近所の写真が趣味のお兄さんだったんです。その人が色々な所に私の写真を投稿するんですね。『アサヒカメラ』に載ったりとか、色々な所に投稿してたみたいです。

――あ、この写真はもしかして松下さんの若い頃のものですか?

松下
あ、そうなんです。私の16歳の時の写真です。

――八重歯がアイドルみたいでカワイイですね~。いい写真ですね~。

松下
本屋を借りてね、そこの店員みたいな感じで撮ったんです。『うちの看板娘』という題で新聞に載りまして、それが特選に入ったんですね。それで景品としてカメラをもらったんです。私の給料が4千5百円ぐらいの時で、その時もらったカメラが7千円だか、8千円だかのものだったんですね。

――給料の倍ぐらいある高価なものだったんですね~。何ていうカメラですか?

松下
う~ん、そこまでは覚えてないんですが、パカッと開けると蛇腹が出てくるようなものでしたね。

――それは写真が特選に入って、そのカメラマンの人が商品として貰ったカメラを貰ったということですか?

松下
いえ、それは私が“モデル賞”として特選に入って貰ったということですね。その頃はそういう“モデル賞”みたいなものがありまして、審査の日にはそのモデルたちが集められて、松竹とか東宝のスカウトが来るんですね。それで一対一で面接するんです。それで映画に来ないかとか色々言われたんですが、私、映画どうやって撮るのかも知らないし、怖いから全部断ったんですね。

――ええ~、なんかもったいないですね~。もしかすると、その時映画に行っていたら、映画女優としての人生を歩んでいたかも知らないですよね~。

松下
まあ、そうですね、私、映画ってコマ切れに撮るって知らなかったものですから、演技が出来ないと思って………。

――ああ、舞台みたいにぶっ通しでやるみたいな感じで………。

松下
家もね、封建的でしたしね………。祖父がね文学博士ですからね、漢文の漢学者。池田四郎次郎っていうんです。

――凄い名前ですね~。名前が二個つながってる。

松下
ちょんまげ結ってたみたいですよ。お母さんのお父さん………。でも女優になってたら写真家としての今はないかもしれないし………。運命って分からないもんですね

――で、その商品のカメラがきっかけですか?

松下
ええ、まあ、きっかけと言えばそうですね。その時、私は中学出て既に働いていたもので、勤めている会社に写真部があったんですよ。そして暗室も。

――会社に暗室が?

松下
『東京牛乳運輸』っていう会社だったんですが、そこの写真部が使ってましたね。その当時は会社にそういうレクレーションを共にする部活動みたいなものがあったんですよ。山岳部とか茶道部だとかダンス部とか色々。その写真部のオジサンたちにいろいろ教わったんですが、私が商品で貰ったカメラ、みんな羨ましがってましたね。その時は終戦後で物があんまりないでしょ。なのでカメラも貴重だったんですよ。その代り、そのカメラ、シャッタースピードが200ぐらいしかないし、レンズは暗いし、お天気のいい日にしか写らないみたいなものでしたけどね。

――昔の会社はそういう部活動みたいなものも多かったんですかね?

松下
そうですね。私も運よくそういう写真部のある会社に入って、仕事が終わると暗室で色々大人の人たちに教わってたんですね。でもフイルムも高いし印画紙も高いし、子供のお小遣いじゃとてもやっていけるものではなかったですね………。

――その頃、そのカメラでどんなもの撮ったんですか?

松下
その頃ね、土門拳さんとかの影響で仏像を撮ったりしている人が多くて、私、何も知識ないものですから写真というのはそういうもんかな~って思ってたんですね。でも会社の撮影会があったりして、外に出て皆で撮ったりしてましたけど、結局私はモデルになる事が多くて………。

――やっぱり、それはカワイイし、綺麗だからですかね~。

松下
(笑)いえ、それは分かりませんけど………。

――その当時、松下さん中学出てすぐの16歳ですよね。そりゃあ、オジサン達からするとアイドルみたいなもんでしょ。相当可愛がられたんじゃないですか?

松下
ええ、もう可愛がられましたね~! その当時は小塚という苗字だったんですけど、皆から「小塚さんだけ特別扱いされてる」ってよく言われてましたね~。

○写真家 松下弘子になるきっかけは?

――そうやって可愛がられながら段々カメラマンになろうという意識が出てきたみたいな感じですかね?

松下
うう~ん、でも結局、写真はお金がかかるものだし、自分の家に暗室なければ出来ない時代でしたからね、それから10年会社勤めて26歳から27歳ぐらいまでそいう暗室で色々教わったりしてました。その後結婚して、子供二人授かりまして、その子供2人結婚させるまでの間、特にカメラに関しては特別な思いはなかったですね。“写るんです”とかで写真撮ってましたもん。まあ、子供と言っても今、もうすでに50歳過ぎですけどね~(笑)

――ああ、そうですか~。そうすると、結局、今の写真家になるきっかけはその後という事ですかね。

松下
45歳ぐらいの時ですかね、子供2人引き取って離婚したんですよ。それで、車の免許所一枚で、働いて子供食べさせたりしてた時期があったんです。

――それは苦労されたんですね~。

松下
それで、子供二人結婚して手がかからなくなってから、「何かしたいな~」って思っていたのは確かですね。55歳ぐらいの時ですね。そういうタイミングの時に、今の夫と巡り合ったんです。最初出会った時に「写真やってる」って言うから「ウソ~ッ!」って驚いて話きいたんですよ。でもその人写真始めて3日目ぐらいだったんですね。そしたら引き伸ばし機があるっていうんで「見せて!」て、いう感じでついて行ったんです。26歳ぐらいの時からブランクがあるでしょ。自分の家にそういう引き伸ばし機が持てるなんていう時代になってる事知らなかったんですよ。驚きましたね。その人、つまり今の夫ですが、ある時、初めて撮った写真を自分で現像して焼くっていうんで、見せてもらいに行ったんですよ。そしたら印画紙とか現像液とか全く合わないものを買ってきてたんですね。その時、私、30年も前の事でもそういう暗室の事覚えてたんですね。「このネガだったら2号の印画紙じゃないとダメだ!」とか言ってアドバイスするみたいな事になっちゃったんですね~。そしたら、「カメラ買ってあげる」っていうんですよ。

――なるほど~。そうすると、今の旦那さんとの出会いが、写真を本格的に始めるきっかけになったという事ですね。

松下
そうですね。それからニコンの一眼レフカメラ、中古で買ってもらいましてね。そういう感じで写真の事に関してはその時からずっと協力してもらえたわけです。

○パンクのライブ、はじめて見た時『めっちゃカッコイイ』と思いました!

――しかし、そういう、いわば趣味でやってみるという所から始まって、どうやってライブ写真を撮影する事になるんですか? 最初からライブ撮影という訳ではないんですよね?

松下
いや、それが最初からなんですね、たまたま。旦那が写真のグループみたいなものに入ってたんですよ。私はそういうのあまり好きじゃなかったんですけど、そのうち私もそこに入れてもらう事になったんです。その時に先生にテーマを持たないとダメだって言われまして、ある時から年中カメラ持って歩いてたんですよ。それである日、成人式の時だったんですけど、「着物をきれいに着た女の子に写真撮らせてもらえる?」って聞いたんですよ。その時声かけた女の子は髪の毛が真っ赤でなんか、すごい髪型してるんです。カメラの中に入ってるのはモノクロフィルムだったんですけどね、そのカラフルな色に惹かれて声かけたんですよね。無意識に。その子に「なんかやってるの?」って聞いたらバンドやってるって言うんですよ。私その時、バンドとかライブとか全く知らなかったんですよ。その頃二万ボルトの前、昼間毎日歩いてたんですけどね~。

――ああ、そうすると、全くこの世界が分からない状態で入ってきたと………。

松下
全然わからなかった。それでその女の子にそのバンドの写真撮らせてって聞くと、チケット買ってくれたら撮ってもいいよっていうんですよ。それで、私、一人で行くの怖かったから旦那と一緒に行ってみたんです。それが“鉄アレイ”だったんです。それからですね。

――なるほど~。偶然というか、そいうきっかけなんですね~。それでどんどんのめり込んだと。

松下
それで、私は勉強のつもりだから、四つ切に焼いて「ありがとうございました」と写真をあげてたんです。そしたら、みんな「俺、カッコイイ~」って評判になって、「次、いついつだから来いよ~」っていう誘いがどんどん増えていったんです。

――そうなると、もうチケットなんか買わなくてもいいわけですよね~。

松下
いや、ずっと買ってたんですけどそのうち「おばちゃん、俺たち写真もらってんだからチケットなんか買わなくていいよ~」って言ってくれるようになったんですね。それで写真撮り始めて3カ月か4ヶ月目ぐらいに『DOLL』っていう雑誌から「写真撮っているみたいですが、見せてください」って言われて、ベタ焼きを見せたんですね。そしたら驚いてですね。今まで撮影NGだった人とかの写真が全部私のベタ焼きの中にあったんですね。それで撮り続けて2、3年した時に白夜書房から出てた『スラング』っていう雑誌に何枚か写真が掲載されて、その後『リトルモア』から声がかかったんですよ。それが写真集『ハードコア』につながっていったんですね。

――そこから、松下さん、有名人になりましたよね。新聞やらテレビでかなり露出が多くなってきて。

松下
ええ、かなりの数取材されましたね~。朝のワイドショーとかね。

――そうですよね、まあ、言ってみれば趣味で始めたカメラで、ある程度お年を召された女性がライブハウス、それもパンクの写真撮ってるなんて、あんまり聞いた事ないですもんで。皆びっくりする事ですよ。

松下
異常だったらしいですね。

――でも、むしろ前知識なく、何の先入観もなしでその現場に乗り込んでいって写真撮ってるということですから、ご自分では違和感はなかったと。

 

松下
私は全然平気でしたし、怖いもの知らずですから(笑)

――最初、ライブ観た時どう思いました?

松下
これはもう、ラッキーだと思いましたね。メッチャ面白かった。壁がね、揺れるぐらいの音って、普通ないでしょ。日常で。

――暴動に巻き込まれたような感じですもんね。

松下
若い時はダンスホールとか行ってた事ありましたけどね。ライブハウスは普通じゃないですよね。音だけじゃなく若い人たちのいで立ちも面白かった。

――そんな、50代、60代の女性なんて、若者と接する事ないじゃないですか。おまけにパンクの人たちとかと。

松下
めっちゃカッコイイと思いましたよ私。何て言うかな~私の時代になかったものがそこにあったんですよ。いい世界だな~って思いましたね~。

――そういう世界、駄目な人もいますよね。不良だとかいって。眉をひそめるというか、白眼視する人たち。そうじゃなかったんですね。

松下
とにかく、自由がうらやましかったですね。若い人たちの。何が不良なの! 一生懸命やってんじゃないかって私なんか思っちゃうな。大人は偏見持ちすぎ。私はいっさいそういうのない。人種もそう。

――接する人にもそういうの伝わるんでしょうね。

松下
単に一回行くだけとかじゃなくて、呼ばれたら絶対行くというのがあって、やっぱり信用してくれたんでしょうね。「おばちゃん、怪我だけはしないでね」って言われるぐらい気を使われちゃって。

――これまで危険な目って遭った事あるんですか?

松下
2回肋骨が折れましたね。1回目はGAUZEの時。会場入り切れないぐらい人の中に入っちゃって、そのまま押されて観客の間に挟まれてボキっていっちゃったの。

――痛かったでしょう~。

松下
痛かった~。一枚も撮れないで出てきちゃった。もう一回行った時に撮らせてもらったけど。次はなんかのライブで、吹っ飛ばされて鉄骨にぶつかって折れちゃったの。

――そういう事あると嫌になったりするでしょう?

松下
しないですね~。折れて3日目にまた撮影始めたんだけど、縦位置が撮れなかったですね。腕が上がらなくて(笑)高熱が出てても解熱剤飲んで行きますから。頼まれたら絶対行きますから。

――根性ありますね、ガッツある!

松下
それはもう、生まれつきのものでしょうね。

――そういう松下さんから見ると、今の若者って、根性ないですよね?

松下
昨日もバンドの子と話してたんだけど、5年もするとバンドなくなっちゃうんですよ。解散する、そしてライブハウスにも来なくなる。客でもね、突っ立って観てる。リズムも取らない。「なにしに来てんだお前ら!」って言いたくなるもん。覇気がねぇな~って。だからね、最近の私の写真、優しい写真ばっかりになっちゃってるんですよ。(笑)

○継続こそ力ですね!何事も!

――去年、背骨を骨折したと聞きましたが、大丈夫ですか?

松下
そうなんですよ、痛かった~。骨粗鬆症で圧迫骨折でした。もう年だからね。骨が潰れたんですよ。じっとしてれば痛くないんですけどね、やっぱりトイレは行かなくちゃならないし、顔も洗わなくちゃならないから、起きる時は激痛。もう駄目だと思いましたね。今回は。でも色々とね、若者がね~。電話もそうですが、手紙が来たり花が来たり。ジュース買ってきてくれたり。ちょっと具合良くなったって言ったら、すぐ杖買ってきてくれたりね。

――その後に第3冊目の写真集が出る事になったんですか?

松下
そうなんですよ。骨が折れたちょっと後に、もうこれで写真集出せないかもしれないって言ったら、「何とかしよう」って若者が言ってくれてね。ホリチョーっていう若者が発起人になって今回の運動が始まったんですよ。

――今となってはパンクの若者の間で知らない人はいないという存在の松下さんですが、やはり写真を撮り続けてきたという継続があったからこそだと思うんですね。

松下
何でもそうですよ~。継続がね。でもね、面白い事だと思いましたね。職業ではないからなおの事ね。弁当屋で働きながらね、写真撮りに行ってましたもんね。

――そういう情熱を燃やし続けるというのが才能のひとつだと思いますよ。

松下
ただね、せっかくやれるチャンスだから、無駄にはしたくないと思ったんじゃないかな。

――そうですか。松下さんの第3弾写真集、楽しみにしてます! 今日はありがとうございました!

松下
いいえ、こちらこそ。またお会いしましょうね!

 

※好評発売中のペキンパー第4号では、インタビューの他にも、『ROAD TO 松下弘子 写真集への道Vol.12』のレポートや『松下のおばちゃん』写真館と題して、過去に出版された写真集より厳選した数点を掲載しております!

「DIY? チャラいんだよ、イモ野郎」極悪ドゥームデュオ TALBOT 極悪インタヴュー

2011年 文・インタヴュー:Stone Harbour Touring


※本記事はペキンパー第弐号に収録されていたものの再録です。

本誌が刊行される頃にはすでに多くの人をノックアウトしているかと思いますが、エストニアより来日する極悪ドゥーム・デュオ TALBOT のインタヴューを行いました。バンドはベース・シンセの Magnus Andre とドラム・ヴォーカルの Jarmo Nuutre からなる二人組で、サイケデリックかつパワフルなドゥームサウンドがウリです。クラシック音楽の盛んなエストニアですが、なかなかアンダーグラウンドな音楽シーンの模様が伝えられていないので、そういったことも含めリーダー的存在の Jarmo に訊いてみました。

Stone Harbour (以下 SH )
こんにちは。ではまずはバンドのヒストリーを教えていただけますか? 他にもやっていたバンドとか、ベースの Magnus との出会いも教えてください。

Jarmo Nuutre (以下 JN )
オーケー。そうさなぁ、俺たちはタルボットの前にも色々バンドやってて、マグナスとも前から違うバンドいくつかやってたんだよ。つってもマグナスとは共通のダチがいて、 10 年くらい前からつるんでるんだよ。

SH
はー、なるほど。ではタルボットのサウンドに関して、エストニアはかなり寒いと思うのですが、音楽やアートワークには何か影響はありますか?

JN
あー、それはかなりあるね。というか音楽とアートワークにはメチャクチャ影響してるよ。多分これからも何らかの形でインスピレーションは受け続けると思うよ。

SH
では何かバンドとしての夢はありますか? たとえばロードバーンでプレイしたいとか。

JN
もちろんロードバーンでやったら気持ちいいだろうけど、夢っていうのとは違うな。俺たちはとにかくカッケー音楽作って観客ぶちのめしたいんだよね。そんで今は日々精進してるってわけ。

SH
そうですか、ではエストニアのアンダーグラウンドなシーンはどうですか? 盛り上がってます? たとえばタルボットみたいな音楽とか、ドゥームとかストーナーとかへヴィな音楽のシーンっていうのはあるんですか?

JN
いや、もう、エストニアの音楽はアングラのもメジャーのも常に良いし、どんどん良くなってると思うよ。でもやっぱりドゥームがポピュラーとはいえないな。まぁ、シーンはあるけどね。 Shelton San とか Tolmund Mesipuu とかなんかはかっこいいから聴いてみなよ。

SH
へー、後で聴いてみます。ところで、あなたたちは DIY にこだわりがあって、ツアーにもたくさん出てるそうですが、 DIY とバンドライフのことを話していただけませんか?

JN
おい、あのなぁ、まず先に言っとくけど DIY ってのはチャラけたライフスタイルなんかとは違うんだよ。少なくとも俺たちにとってはな。そこらへんのイモ野郎は気取った「ライフスタイル」って意味で DIY っていうけど、俺たちが DIY でやるっつーのは全部自分でやりきるってことなんだよ。バンドでいえばレコーディングから、ミキシング、マスタリング、リリースとそれにまつわるすべての事をやるってことだよ。でも別に俺たちは何かルールを作ってるわけじゃないんだ。もうずっとそういう風にやってきたし、常にもっと良い手段があれば、古い方法を捨ててそっちでやることは躊躇しない。

ま、ツアーに関しちゃ俺たちはただツアーが好きってだけだな。やっぱツアーに出ていろんなバンドと知り合ったりするのはサイコーだって思うよ。

SH
そうですね、ではタルボットの音源を私たちに紹介してくれませんか?

JN
んー、じゃあいくつかの単語を言うからよく聞いておけ。へヴィ、サイケデリック、エクスペリメンタル、へヴィ、美、氷、ノイズ、へヴィ、暗黒、光、温もり、極寒、へヴィ。まぁ、とにかくアルバム聴いてくれや。

SH
わかりました。では、あなたはタトゥーパーラーを営んでいるそうですが、いつからやっているんですか? あなたはタトゥーだらけですが、エストニアではみんなタトゥーしてるんですか? 日本ではあんまりいませんよ。

JN
あぁ、俺は 1998 年だから… 14 の時からやってるよ。エストニアではみんなタトゥー入れてるし、もうほとんど普通の事になってきてるよ。でも日本ってみんな入れてるんじゃないの? 日本って昔からタトゥー文化あるだろ?

SH
あ、それは刺青ですね。タトゥーとはちょっと違うんです。でもなんで日本に来たいと思ったんですか?

JN
ま、一番の理由は前からずっと行きたかったって感じかな。そんだけだね。それに俺たちはどこででもやりたいんだ。Tour de Moon (月ツアー)はいつになるかな。

SH
では知ってる日本のバンドとか、対バンしたバンドとかはいますか?

JN
KK Null とか Terminal HZ 、 Acid Mothers Temple は観た事あるな。みんな KK 繋がりだろ? 他で知ってるのは Boris とか Coffins とか Grieved 、 Birushanah あたりかな。 Boris 以外は今回対バンするよな。

SH
ええ、お願いしてあります。では日本のファンにメッセージをいただけますか?

JN
お前ら首洗って待ってろよ! Let’s doom !

SH
…ところで、もしよかったらドラッグについてお訊きしても良いですか?

JN
あぁ、いいよ。

SH
では、エストニアで最も大衆的なドラッグは何ですか? それと、タルボットがライヴの時は楽屋にビールをセットしておくように聞きましたが、やっぱりあなたたちにビールはガソリンですか?

JN
まぁ、やっぱりハッパはみんなやってるよ。でもそれって世界中で同じだろ? で、ビールだけど、あった方がいいけどライヴ前にガンガン飲むってことはないな。それにビールだけじゃなくて水も欲しいな。

 

極悪ディスクレヴュー
タルボットは自主制作でいくつかの音源をリリースしているが、現在は簡単に手に入る音源がふたつある。
それは、2008年リリースの「ツンドラ地帯」と2010年の「EOS」だ。
どちらも彼らのbandcampから無料でダウンロードできるので、聴いて気に入ったら送金してあげて下さい。

「ツンドラ地帯」

2008年に自主リリースされたEPで、3曲収録されている。一音目からへヴィそのもので、全編にわたってマンモスが歩いているようなへヴィサウンドで埋め尽くされている。インタヴューで語っているように、アートワークもサウンドもツンドラの永久凍土を想起させる。アルバム「EOS」と同様にへヴィサウンドとヴォーカルのバランスがよく聴きやすいが、単純にスローでへヴィなドゥームサウンドが聴きたい場合は「EOS」よりもこちらの方がお勧めだ。というより、エクスペリメンタルな作られたサウンドよりもベースのへヴィネスを求めるなら断然こちらのEPの方がかっこいい。

「EOS」

2010年リリースのアルバム。自主リリースされたのちにロシアのポストメタル専門レーベルのスロー・バーン・レコーズから限定枚数再発された。エストニアのミュージックアワードで2010年のベストメタルアルバム部門にノミネートされたり、最近では現地新聞の過去二十年間のエストニア音楽ランキングで20位をマークしたりと、局地的にではあるがホットなアルバムだ。「ツンドラEP」よりもエクスペリメンタルな音作りで、自分たちの出したい音が定まったかのように思える。やはり全編重苦しいへヴィサウンドだが、勢いがあるパートもあるので緩急がついていて聴きやすい。ライヴはほとんどこのアルバム収録曲から演奏される。