2013年6月21日 聞き手: 川保天骨(梵天レコード) ギョクモンエンターテイメント事務所にて
※本記事はペキンパー第四号に収録されていたものの再録です。
――松下さん、私、実は以前、バンドの写真、松下さんに撮ってもらった事があるんですよ。
松下
ええ、覚えてますよ。『太陽肛門』難しいバンドだったですよ~どうやって撮ろうか、苦労しましたもん。
――あ~すみません。でも松下さんの撮ってくれた写真、色々使わせてもらいました~。海外のレーベルとか雑誌に送ったのは松下さんの写真です。
松下
そうですか、ありがとうございます。
――それにしても、今日は雨の中、事務所まで来ていただいてありがとうござます!
松下
いいえ、こちらこそ!私もお会いしたかったですよ~。
――ありがとうございます。今日はよろしくお願いします!
松下
はい。何でも聞いてくださいね。
――それではまず、松下さんのカメラとの出会いをお聞きしたいんですが。どういうきっかけで写真の世界に入ったんですか?
松下
はい。私が16歳の時に近所のお兄さんに声を掛けられてモデルをしたことから始まるんですね。その人はその後『二科展』なんかに入る有名な人になったんですけど………。中尾巌っていう方ですが、その時は私と10歳ぐらい違う単なる近所の写真が趣味のお兄さんだったんです。その人が色々な所に私の写真を投稿するんですね。『アサヒカメラ』に載ったりとか、色々な所に投稿してたみたいです。
――あ、この写真はもしかして松下さんの若い頃のものですか?
松下
あ、そうなんです。私の16歳の時の写真です。
――八重歯がアイドルみたいでカワイイですね~。いい写真ですね~。
松下
本屋を借りてね、そこの店員みたいな感じで撮ったんです。『うちの看板娘』という題で新聞に載りまして、それが特選に入ったんですね。それで景品としてカメラをもらったんです。私の給料が4千5百円ぐらいの時で、その時もらったカメラが7千円だか、8千円だかのものだったんですね。
――給料の倍ぐらいある高価なものだったんですね~。何ていうカメラですか?
松下
う~ん、そこまでは覚えてないんですが、パカッと開けると蛇腹が出てくるようなものでしたね。
――それは写真が特選に入って、そのカメラマンの人が商品として貰ったカメラを貰ったということですか?
松下
いえ、それは私が“モデル賞”として特選に入って貰ったということですね。その頃はそういう“モデル賞”みたいなものがありまして、審査の日にはそのモデルたちが集められて、松竹とか東宝のスカウトが来るんですね。それで一対一で面接するんです。それで映画に来ないかとか色々言われたんですが、私、映画どうやって撮るのかも知らないし、怖いから全部断ったんですね。
――ええ~、なんかもったいないですね~。もしかすると、その時映画に行っていたら、映画女優としての人生を歩んでいたかも知らないですよね~。
松下
まあ、そうですね、私、映画ってコマ切れに撮るって知らなかったものですから、演技が出来ないと思って………。
――ああ、舞台みたいにぶっ通しでやるみたいな感じで………。
松下
家もね、封建的でしたしね………。祖父がね文学博士ですからね、漢文の漢学者。池田四郎次郎っていうんです。
――凄い名前ですね~。名前が二個つながってる。
松下
ちょんまげ結ってたみたいですよ。お母さんのお父さん………。でも女優になってたら写真家としての今はないかもしれないし………。運命って分からないもんですね
――で、その商品のカメラがきっかけですか?
松下
ええ、まあ、きっかけと言えばそうですね。その時、私は中学出て既に働いていたもので、勤めている会社に写真部があったんですよ。そして暗室も。
――会社に暗室が?
松下
『東京牛乳運輸』っていう会社だったんですが、そこの写真部が使ってましたね。その当時は会社にそういうレクレーションを共にする部活動みたいなものがあったんですよ。山岳部とか茶道部だとかダンス部とか色々。その写真部のオジサンたちにいろいろ教わったんですが、私が商品で貰ったカメラ、みんな羨ましがってましたね。その時は終戦後で物があんまりないでしょ。なのでカメラも貴重だったんですよ。その代り、そのカメラ、シャッタースピードが200ぐらいしかないし、レンズは暗いし、お天気のいい日にしか写らないみたいなものでしたけどね。
――昔の会社はそういう部活動みたいなものも多かったんですかね?
松下
そうですね。私も運よくそういう写真部のある会社に入って、仕事が終わると暗室で色々大人の人たちに教わってたんですね。でもフイルムも高いし印画紙も高いし、子供のお小遣いじゃとてもやっていけるものではなかったですね………。
――その頃、そのカメラでどんなもの撮ったんですか?
松下
その頃ね、土門拳さんとかの影響で仏像を撮ったりしている人が多くて、私、何も知識ないものですから写真というのはそういうもんかな~って思ってたんですね。でも会社の撮影会があったりして、外に出て皆で撮ったりしてましたけど、結局私はモデルになる事が多くて………。
――やっぱり、それはカワイイし、綺麗だからですかね~。
松下
(笑)いえ、それは分かりませんけど………。
――その当時、松下さん中学出てすぐの16歳ですよね。そりゃあ、オジサン達からするとアイドルみたいなもんでしょ。相当可愛がられたんじゃないですか?
松下
ええ、もう可愛がられましたね~! その当時は小塚という苗字だったんですけど、皆から「小塚さんだけ特別扱いされてる」ってよく言われてましたね~。
○写真家 松下弘子になるきっかけは?
――そうやって可愛がられながら段々カメラマンになろうという意識が出てきたみたいな感じですかね?
松下
うう~ん、でも結局、写真はお金がかかるものだし、自分の家に暗室なければ出来ない時代でしたからね、それから10年会社勤めて26歳から27歳ぐらいまでそいう暗室で色々教わったりしてました。その後結婚して、子供二人授かりまして、その子供2人結婚させるまでの間、特にカメラに関しては特別な思いはなかったですね。“写るんです”とかで写真撮ってましたもん。まあ、子供と言っても今、もうすでに50歳過ぎですけどね~(笑)
――ああ、そうですか~。そうすると、結局、今の写真家になるきっかけはその後という事ですかね。
松下
45歳ぐらいの時ですかね、子供2人引き取って離婚したんですよ。それで、車の免許所一枚で、働いて子供食べさせたりしてた時期があったんです。
――それは苦労されたんですね~。
松下
それで、子供二人結婚して手がかからなくなってから、「何かしたいな~」って思っていたのは確かですね。55歳ぐらいの時ですね。そういうタイミングの時に、今の夫と巡り合ったんです。最初出会った時に「写真やってる」って言うから「ウソ~ッ!」って驚いて話きいたんですよ。でもその人写真始めて3日目ぐらいだったんですね。そしたら引き伸ばし機があるっていうんで「見せて!」て、いう感じでついて行ったんです。26歳ぐらいの時からブランクがあるでしょ。自分の家にそういう引き伸ばし機が持てるなんていう時代になってる事知らなかったんですよ。驚きましたね。その人、つまり今の夫ですが、ある時、初めて撮った写真を自分で現像して焼くっていうんで、見せてもらいに行ったんですよ。そしたら印画紙とか現像液とか全く合わないものを買ってきてたんですね。その時、私、30年も前の事でもそういう暗室の事覚えてたんですね。「このネガだったら2号の印画紙じゃないとダメだ!」とか言ってアドバイスするみたいな事になっちゃったんですね~。そしたら、「カメラ買ってあげる」っていうんですよ。
――なるほど~。そうすると、今の旦那さんとの出会いが、写真を本格的に始めるきっかけになったという事ですね。
松下
そうですね。それからニコンの一眼レフカメラ、中古で買ってもらいましてね。そういう感じで写真の事に関してはその時からずっと協力してもらえたわけです。
○パンクのライブ、はじめて見た時『めっちゃカッコイイ』と思いました!
――しかし、そういう、いわば趣味でやってみるという所から始まって、どうやってライブ写真を撮影する事になるんですか? 最初からライブ撮影という訳ではないんですよね?
松下
いや、それが最初からなんですね、たまたま。旦那が写真のグループみたいなものに入ってたんですよ。私はそういうのあまり好きじゃなかったんですけど、そのうち私もそこに入れてもらう事になったんです。その時に先生にテーマを持たないとダメだって言われまして、ある時から年中カメラ持って歩いてたんですよ。それである日、成人式の時だったんですけど、「着物をきれいに着た女の子に写真撮らせてもらえる?」って聞いたんですよ。その時声かけた女の子は髪の毛が真っ赤でなんか、すごい髪型してるんです。カメラの中に入ってるのはモノクロフィルムだったんですけどね、そのカラフルな色に惹かれて声かけたんですよね。無意識に。その子に「なんかやってるの?」って聞いたらバンドやってるって言うんですよ。私その時、バンドとかライブとか全く知らなかったんですよ。その頃二万ボルトの前、昼間毎日歩いてたんですけどね~。
――ああ、そうすると、全くこの世界が分からない状態で入ってきたと………。
松下
全然わからなかった。それでその女の子にそのバンドの写真撮らせてって聞くと、チケット買ってくれたら撮ってもいいよっていうんですよ。それで、私、一人で行くの怖かったから旦那と一緒に行ってみたんです。それが“鉄アレイ”だったんです。それからですね。
――なるほど~。偶然というか、そいうきっかけなんですね~。それでどんどんのめり込んだと。
松下
それで、私は勉強のつもりだから、四つ切に焼いて「ありがとうございました」と写真をあげてたんです。そしたら、みんな「俺、カッコイイ~」って評判になって、「次、いついつだから来いよ~」っていう誘いがどんどん増えていったんです。
――そうなると、もうチケットなんか買わなくてもいいわけですよね~。
松下
いや、ずっと買ってたんですけどそのうち「おばちゃん、俺たち写真もらってんだからチケットなんか買わなくていいよ~」って言ってくれるようになったんですね。それで写真撮り始めて3カ月か4ヶ月目ぐらいに『DOLL』っていう雑誌から「写真撮っているみたいですが、見せてください」って言われて、ベタ焼きを見せたんですね。そしたら驚いてですね。今まで撮影NGだった人とかの写真が全部私のベタ焼きの中にあったんですね。それで撮り続けて2、3年した時に白夜書房から出てた『スラング』っていう雑誌に何枚か写真が掲載されて、その後『リトルモア』から声がかかったんですよ。それが写真集『ハードコア』につながっていったんですね。
――そこから、松下さん、有名人になりましたよね。新聞やらテレビでかなり露出が多くなってきて。
松下
ええ、かなりの数取材されましたね~。朝のワイドショーとかね。
――そうですよね、まあ、言ってみれば趣味で始めたカメラで、ある程度お年を召された女性がライブハウス、それもパンクの写真撮ってるなんて、あんまり聞いた事ないですもんで。皆びっくりする事ですよ。
松下
異常だったらしいですね。
――でも、むしろ前知識なく、何の先入観もなしでその現場に乗り込んでいって写真撮ってるということですから、ご自分では違和感はなかったと。
松下
私は全然平気でしたし、怖いもの知らずですから(笑)
――最初、ライブ観た時どう思いました?
松下
これはもう、ラッキーだと思いましたね。メッチャ面白かった。壁がね、揺れるぐらいの音って、普通ないでしょ。日常で。
――暴動に巻き込まれたような感じですもんね。
松下
若い時はダンスホールとか行ってた事ありましたけどね。ライブハウスは普通じゃないですよね。音だけじゃなく若い人たちのいで立ちも面白かった。
――そんな、50代、60代の女性なんて、若者と接する事ないじゃないですか。おまけにパンクの人たちとかと。
松下
めっちゃカッコイイと思いましたよ私。何て言うかな~私の時代になかったものがそこにあったんですよ。いい世界だな~って思いましたね~。
――そういう世界、駄目な人もいますよね。不良だとかいって。眉をひそめるというか、白眼視する人たち。そうじゃなかったんですね。
松下
とにかく、自由がうらやましかったですね。若い人たちの。何が不良なの! 一生懸命やってんじゃないかって私なんか思っちゃうな。大人は偏見持ちすぎ。私はいっさいそういうのない。人種もそう。
――接する人にもそういうの伝わるんでしょうね。
松下
単に一回行くだけとかじゃなくて、呼ばれたら絶対行くというのがあって、やっぱり信用してくれたんでしょうね。「おばちゃん、怪我だけはしないでね」って言われるぐらい気を使われちゃって。
――これまで危険な目って遭った事あるんですか?
松下
2回肋骨が折れましたね。1回目はGAUZEの時。会場入り切れないぐらい人の中に入っちゃって、そのまま押されて観客の間に挟まれてボキっていっちゃったの。
――痛かったでしょう~。
松下
痛かった~。一枚も撮れないで出てきちゃった。もう一回行った時に撮らせてもらったけど。次はなんかのライブで、吹っ飛ばされて鉄骨にぶつかって折れちゃったの。
――そういう事あると嫌になったりするでしょう?
松下
しないですね~。折れて3日目にまた撮影始めたんだけど、縦位置が撮れなかったですね。腕が上がらなくて(笑)高熱が出てても解熱剤飲んで行きますから。頼まれたら絶対行きますから。
――根性ありますね、ガッツある!
松下
それはもう、生まれつきのものでしょうね。
――そういう松下さんから見ると、今の若者って、根性ないですよね?
松下
昨日もバンドの子と話してたんだけど、5年もするとバンドなくなっちゃうんですよ。解散する、そしてライブハウスにも来なくなる。客でもね、突っ立って観てる。リズムも取らない。「なにしに来てんだお前ら!」って言いたくなるもん。覇気がねぇな~って。だからね、最近の私の写真、優しい写真ばっかりになっちゃってるんですよ。(笑)
○継続こそ力ですね!何事も!
――去年、背骨を骨折したと聞きましたが、大丈夫ですか?
松下
そうなんですよ、痛かった~。骨粗鬆症で圧迫骨折でした。もう年だからね。骨が潰れたんですよ。じっとしてれば痛くないんですけどね、やっぱりトイレは行かなくちゃならないし、顔も洗わなくちゃならないから、起きる時は激痛。もう駄目だと思いましたね。今回は。でも色々とね、若者がね~。電話もそうですが、手紙が来たり花が来たり。ジュース買ってきてくれたり。ちょっと具合良くなったって言ったら、すぐ杖買ってきてくれたりね。
――その後に第3冊目の写真集が出る事になったんですか?
松下
そうなんですよ。骨が折れたちょっと後に、もうこれで写真集出せないかもしれないって言ったら、「何とかしよう」って若者が言ってくれてね。ホリチョーっていう若者が発起人になって今回の運動が始まったんですよ。
――今となってはパンクの若者の間で知らない人はいないという存在の松下さんですが、やはり写真を撮り続けてきたという継続があったからこそだと思うんですね。
松下
何でもそうですよ~。継続がね。でもね、面白い事だと思いましたね。職業ではないからなおの事ね。弁当屋で働きながらね、写真撮りに行ってましたもんね。
――そういう情熱を燃やし続けるというのが才能のひとつだと思いますよ。
松下
ただね、せっかくやれるチャンスだから、無駄にはしたくないと思ったんじゃないかな。
――そうですか。松下さんの第3弾写真集、楽しみにしてます! 今日はありがとうございました!
松下
いいえ、こちらこそ。またお会いしましょうね!
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