死、恍惚、パニック! フェルナンド・アラバール!第03回『ゲルニカの木』(’75)

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『フェルナンド・アラバール初期作品集3枚組 無修正完全版』

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アレハンドロ・ホドロフスキーや寺山修司に大きな影響を与えた伝説の映像作家、フェルナンド・アラバールの3部作! 驚愕の映像芸術の世界が日本に上陸!

2016年3月4日に『フェルナンド・アラバール初期作品集3枚組 無修正完全版』が発売となります。
なお、本コラムは、ペキンパー第四号に掲載されたものを再編集したものです。

第01回『死よ、万歳』(’71)
第02回『クレイジーホース』(’73)
第03回「『ゲルニカの木』(’75)

3.シュルレアリズムと「パニック運動」――『クレイジーホース』(’73)


涅槃を今!

賛美歌と共に、赤と黒の旗を掲げた天使のような少女たちが村を駆けていく。その様子がスローモーションで映し出される。あまりの美しさに息を呑むアラバールの監督第三作『ゲルニカの木』(75年)のオープニングだ。アラバールは語る。

“少女たちが掲げているのはアナーキズムの旗だ”―― “Arrabal, Panik Cineast”

1936年7月、スペイン軍の将軍グループがスペイン第二共和国政府に対してクーデターを起こした。スペイン内戦の勃発である。『ゲルニカの木』は、架空の村ラミロ(『死よ~』の舞台と同名)を舞台に実際の記録映像を交え、複数の登場人物による群像劇として描くことでスペイン内戦の縮図となっている。

動物を模した古代の神々を思わせる異形の仮面を被ったラミロ村の人々のパレードが映される。彼らは工場労働者や農民が主の無政府主義者や社労党左派を、パレードを苦々しく見下ろす村の伯爵は革命によって打倒される地方政権を、クーデターを策謀する伯爵の三人の甥はファシスト派をそれぞれ象徴している。加えて、ゲルニカ空爆を生き延びた女性バンダール、伯爵の息子で反権威主義のゴヤ、人道主義の教師が登場する。

本作の実質的主人公といえるのは、バンダールとゴヤだ。

タイトルにあるゲルニカとはスペインのバスク自治州ビスカヤ県の都市の名前。1937年4月26日、フランコ側を援助したヒトラーのドイツ空軍による無差別爆撃によって市民数百人が命を奪われた。ピカソがこの事件を題材に「ゲルニカ」を描いたことはあまりにも有名。「ゲルニカの木」は代々植え替えられてきたオークの木で、空爆の被害を免れた。

ゲルニカ空爆を生き延びたバンダールは、同じ悲劇の迫りつつあるラミロ村の反ファシズム運動に身を投じ、民衆を扇動する。天から神の声を聞いたジャンヌ・ダルクのように。彼女が聞いたのは神の声ではなく、爆音と罪無き民衆の悲鳴だったが。

ゴヤは悪戯ともテロともとれる行為(少女たちの聖体拝領に赤十字に扮して現われ、「聖餅に毒が入っている!」と叫ぶ、等)を繰り返している、根無し草のような男だったが、バンダールに出会い、共に空爆を生き延びたことで彼女に続く。ゴヤはアラバール自身の投影だろう。ゴヤは伯爵である父親に「40にもなって何をやっておる!」と叱られる。本作を監督した当時のアラバールも40代・・・自嘲的なギャグなのかもしれない。ゴヤは父の飲んでいた酒に射精する。

「飲んでもらおう 昨日 あなたに飲まされたものだ」――

名前はアラバールが敬愛するスペインの画家フランシスコ・デ・ゴヤに由来すると思われる。

 

最後の誘惑

スペイン内戦において、ローマ教皇庁はファシスト政権を容認した。このことはスペイン国民の間に宗教的、民族的対立を招くこととなる。本作におけるキリスト教に対する批判はアラバール史上最も苛烈だ。

キリスト像は小便を浴びせられ、銃弾の的にされる。聖母マリア像は犯され、精液で汚される。キリスト万歳! と叫ぶファシスト達(これは『クレイジー~』にも登場している)。冒涜の罪を犯した青年のペニスを焼く神父。神父がファシストを祝福し、濃厚な口づけを交わす。

だが一方、アラバールのキリスト教に対する心情は、単なる憎悪、憤怒だけではないことを表すシーンも多い。そして、そこには過去の作品と同じく母親の影がある。

ラミロ村へロバに乗って入村するバンダールは、同じくロバに乗り、エルサレムへ勝利の入城を果たしたイエス・キリストそのものだ。バンダールを演じたマリアンジェラ・メラートは『流されて』等で映画ファンにはお馴染みの女優。通った鼻筋、意志の強さを感じさせる口元は、『死よ~』のファンドの母親とよく似ている。終盤、ファシストに拷問され、瀕死となったゴヤ(アラバールは67年7月、スペインを訪れた際、著作が政府を冒涜しているとして逮捕、拘留されている)をバンダールが悲嘆の表情で抱きかかえるシーンは明らかに、磔から降ろされたキリストを抱く聖母マリア、ピエタのイメージだ。

アラバールは後年、カトリックに入信している。彼の作品では、“キリスト教”への批判は目立つものの、キリストその人への明確な批判、不敬な描写は見られない。『クレイジー~』では人の姿のキリストを幻視したマベルが何かに目覚めるようなシーンがある(これが彼にどんな影響を及ぼしたかはっきりとは描かれない)。本作では教師の部屋でガンジーの写真が飾られている。これは教師が人道主義者であることの表れだが、「キリスト教徒はキリストのようではない」という有名な発言を思い出させる。

反戦/反ファシズムの天使、勇気と慈愛の女神――バンダールはアラバールにとって理想の女性、母親像であり、キリストへの抑えきれぬ憧憬なのだ。

 

“Lateralus”

物語は史実と同じくファシズムの勝利を迎える。ある者は銃弾に倒れ、ある者は捕えられ、処刑される(この様子は、牛に仕立てられた小人を闘牛士が串刺しにするシュールな映像で描かれる)。

ファシストの手を逃れ、ラミロ村を脱出するバンダールとゴヤ。夕日を背に二人は初めて名乗り合い、口づけを交わす。

「再び自由が訪れるまで あきらめはしない ゲルニカの木のように 希望は永遠に生き続ける」――

日が沈んでいく。そこには悲観も、感傷もない。日はまた昇るだろう。太陽を、不屈の意志を、奪い去ることなど誰にもできないのだ。

アラバールの作品は、どれも二つの力が描く二重の螺旋のようだ。それらは時に交差しながら、果てし無く突き進んでいく。

ファンドは希望を追い続けるだろう。死の手も、彼を追い続けるように。アデンの魂は、更なる高みへ向かうだろう。その間も文明社会は、多くの人をその檻の中に捕らえたままだ。バンダールの意志の炎は絶えること無く、受け継がれていくだろう。ファシズムの渦も、この世界から消え去ることは無いだろう。

アラバールの作品に触れた時、私たちにできるのは、立ち止まることや振り返ることではない。進み続けることだ。巨人が私に微笑む。

「映画とは何かだって? 私が映画だ」―”Arrabal, Panik Cineast”

……探求は続く―[:]